CETEIcean 1.8.0-beta.1 → 1.8.0

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  <TEI xmlns="http://www.tei-c.org/ns/1.0">
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  <teiHeader>
5
4
  <fileDesc>
6
5
  <titleStmt>
7
6
  <title>走れメロス</title>
8
7
  <author>太宰治</author>
9
-
8
+ <respStmt>
9
+ <resp>Transcription</resp>
10
+ <name>金川一之</name>
11
+ </respStmt>
12
+ <respStmt>
13
+ <resp>Proofreading</resp>
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+ <name>高橋美奈子</name>
15
+ </respStmt>
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+ <respStmt>
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+ <resp>TEI encoding</resp>
18
+ <name>永崎研宣</name>
19
+ </respStmt>
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20
  </titleStmt>
11
21
  <publicationStmt>
12
22
  <distributor>青空文庫</distributor>
@@ -23,8 +33,20 @@
23
33
  >1998(平成10)年6月15日</date>第2刷 </bibl>
24
34
  </sourceDesc>
25
35
  </fileDesc>
36
+ <encodingDesc>
37
+ <editorialDecl>
38
+ <p>
39
+ <gi>placeName</gi>の@typeでは、実際にいた場所を"real"、そうでない場所を"unreal"として区別している。 </p>
40
+ <p>
41
+ <gi>persName</gi>は、人称代名詞以外の人や人々を指す名詞に付与している。人称代名詞には<gi>rs</gi>を付与している。いずれも@correspでID参照している。
42
+ </p>
43
+ </editorialDecl>
44
+
45
+ </encodingDesc>
26
46
  <revisionDesc>
27
47
  <list>
48
+ <item><date when="2022-11-05"
49
+ >2022年11月5日</date>タグの追加・修正。<gi>editorialDecl</gi>の追加など。</item>
28
50
  <item>
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  <date when="2011-01-17">2011年1月17日</date>修正 </item>
30
52
  <item> 入力<persName>金川一之</persName> 校正<persName>高橋美奈子</persName>
@@ -40,32 +62,39 @@
40
62
  <rt>じゃちぼうぎゃく</rt>
41
63
  </ruby> の王</persName>を除かなければならぬと決意した。<persName corresp="#メロス"
42
64
  >メロス</persName>には政治がわからぬ。<persName corresp="#メロス"
43
- >メロス</persName>は、村の牧人である。 笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。</p>
44
- <p> きょう未明<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた <ruby>
65
+ >メロス</persName>は、<roleName>村の牧人</roleName>である。
66
+ 笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。</p>
67
+ <p> きょう未明<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は<placeName type="real"
68
+ corresp="#村">村</placeName>を出発し、野を越え山越え、十里はなれた <ruby>
45
69
  <rb>此</rb>
46
70
  <rt>こ</rt>
47
- </ruby>の<placeName>シラクス</placeName>の市にやって来た。<persName corresp="#メロス"
48
- >メロス</persName>には父も、母も無い。女房も無い。 十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、 <ruby>
49
- <rb>花婿</rb>
50
- <rt>はなむこ</rt>
51
- </ruby>として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。 <persName corresp="#メロス"
71
+ </ruby>の<placeName type="real" corresp="#シラクス">シラクス</placeName>の市にやって来た。<persName
72
+ corresp="#メロス">メロス</persName>には父も、母も無い。女房も無い。 十六の、<persName
73
+ corresp="#メロスの妹">内気な妹</persName>と二人暮しだ。この<persName corresp="#メロスの妹"
74
+ >妹</persName>は、村の或る律気な<persName corresp="#メロスの妹の婿">一<roleName>牧人</roleName></persName>を、近々、 <persName corresp="#メロスの妹の婿"><ruby>
75
+ <rb>花婿</rb>
76
+ <rt>はなむこ</rt>
77
+ </ruby></persName>として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。 <persName corresp="#メロス"
52
78
  >メロス</persName>は、それゆえ、<persName corresp="#メロスの妹"
53
- >花嫁</persName>の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。
54
- 先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。</p>
79
+ >花嫁</persName>の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる<placeName type="real" corresp="#市"
80
+ >市</placeName>にやって来たのだ。 先ず、その品々を買い集め、それから<placeName type="real"
81
+ corresp="#都の大路">都の大路</placeName>をぶらぶら歩いた。</p>
55
82
  <p>
56
- <persName corresp="#メロス">メロス</persName>には竹馬の友があった。 <persName
57
- corresp="#セリヌンティウス"
58
- >セリヌンティウス</persName>である。今は此の<placeName>シラクス</placeName>の市で、
59
- <roleName>石工</roleName>をしている。 その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、
60
- 訪ねて行くのが楽しみである。 </p>
83
+ <persName corresp="#メロス">メロス</persName>には<persName corresp="#セリヌンティウス"
84
+ >竹馬の友</persName>があった。 <persName corresp="#セリヌンティウス"
85
+ >セリヌンティウス</persName>である。今は此の<placeName type="unreal" corresp="#市"
86
+ >シラクスの市</placeName>で、 <roleName>石工</roleName>をしている。
87
+ その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、 訪ねて行くのが楽しみである。 </p>
61
88
  <p> 歩いているうちに<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、まちの様子を怪しく思った。
62
- ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、
63
- なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきな<persName corresp="#メロス"
64
- >メロス</persName>も、 だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、
65
- 二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった <ruby>
89
+ ひっそりしている。もう既に<time when-custom="初日の夜">日も落ちて</time>、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、 なんだか、夜のせいばかりでは無く、<placeName
90
+ type="real" corresp="#市">市</placeName>全体が、やけに寂しい。のんきな<persName corresp="#メロス"
91
+ >メロス</persName>も、
92
+ だんだん不安になって来た。<placeName type="real" corresp="#路">路</placeName>で逢った<persName>若い衆</persName>をつかまえて、何かあったのか、 二年まえに此の<placeName
93
+ type="unreal" corresp="#市">市</placeName>に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった <ruby>
66
94
  <rb>筈</rb>
67
95
  <rt>はず</rt>
68
- </ruby>だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。 しばらく歩いて<persName corresp="#老爺"><ruby>
96
+ </ruby>だが、と質問した。<persName>若い衆</persName>は、首を振って答えなかった。 しばらく歩いて<persName
97
+ corresp="#老爺"><ruby>
69
98
  <rb>老爺</rb>
70
99
  <rt>ろうや</rt>
71
100
  </ruby></persName>に逢い、 こんどはもっと、語勢を強くして質問した。<persName corresp="#老爺"
@@ -78,8 +107,8 @@
78
107
  <said who="#メロス">「たくさんの人を殺したのか。」</said>
79
108
  <said who="#老爺">「はい、はじめは<persName corresp="#ディオニス">王様</persName>の<persName
80
109
  corresp="#ディオニスの妹婿">妹婿さま</persName> を。それから、<persName
81
- corresp="#ディオニス">御自身</persName>の<persName corresp="#ディオニスの世嗣"><ruby>
82
- <rb>お世嗣</rb>
110
+ corresp="#ディオニス">御自身</persName>の<persName corresp="#ディオニスの世嗣">お<ruby>
111
+ <rb>世嗣</rb>
83
112
  <rt>よつぎ</rt>
84
113
  </ruby></persName>を。 それから、<persName corresp="#ディオニスの妹"
85
114
  >妹さま</persName>を。それから、<persName corresp="#ディオニスの妹"
@@ -99,7 +128,7 @@
99
128
  </p>
100
129
  <p>
101
130
  <persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、 単純な男であった。買い物を、背負ったままで、
102
- のそのそ<placeName>王城</placeName>にはいって行った。たちまち彼は、 <ruby>
131
+ のそのそ<placeName type="real" corresp="#王城">王城</placeName>にはいって行った。たちまち<rs corresp="#メロス">彼</rs>は、 <ruby>
103
132
  <rb>巡邏</rb>
104
133
  <rt>じゅんら</rt>
105
134
  </ruby>の<roleName>警吏</roleName>に捕縛された。調べられて、<persName corresp="#メロス"
@@ -130,8 +159,8 @@
130
159
  <rt>はんばく</rt>
131
160
  </ruby>した。<said who="#メロス">「人の心を疑うのは、 最も恥ずべき悪徳だ。<persName corresp="#ディオニス"
132
161
  >王</persName>は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」</said>
133
- <said> 「疑うのが、正当の心構えなのだと、<persName corresp="#ディオニス"
134
- >わし</persName>に教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。
162
+ <said> 「疑うのが、正当の心構えなのだと、<rs corresp="#ディオニス"
163
+ >わし</rs>に教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。
135
164
  人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」</said><persName corresp="#ディオニス"
136
165
  >暴君</persName>は落着いて<ruby>
137
166
  <rb>呟</rb>
@@ -139,17 +168,16 @@
139
168
  </ruby>き、ほっと<ruby>
140
169
  <rb>溜息</rb>
141
170
  <rt>ためいき</rt>
142
- </ruby>をついた。 <said who="#ディオニス">「<persName corresp="#ディオニス"
143
- >わし</persName>だって、平和を望んでいるのだが。」</said>
171
+ </ruby>をついた。 <said who="#ディオニス">「<rs corresp="#ディオニス"
172
+ >わし</rs>だって、平和を望んでいるのだが。」</said>
144
173
  <said who="#メロス">「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」</said>こんどは<persName corresp="#メロス"
145
174
  >メロス</persName>が嘲笑した。 <said who="#メロス">「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」 </said>
146
175
  <said who="#ディオニス">「だまれ、<persName corresp="#メロス"><ruby>
147
176
  <rb>下賤</rb>
148
177
  <rt>げせん</rt>
149
178
  </ruby>の者</persName>。」 </said><persName corresp="#ディオニス"
150
- >王</persName>は、さっと顔を挙げて報いた。<said who="#ディオニス"
151
- >「口では、どんな清らかな事でも言える。<persName corresp="#ディオニス"
152
- >わし</persName>には、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。 おまえだって、いまに、<ruby>
179
+ >王</persName>は、さっと顔を挙げて報いた。<said who="#ディオニス">「口では、どんな清らかな事でも言える。<rs
180
+ corresp="#ディオニス">わし</rs>には、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。 <rs corresp="#メロス">おまえ</rs>だって、いまに、<ruby>
153
181
  <rb>磔</rb>
154
182
  <rt>はりつけ</rt>
155
183
  </ruby>になってから、泣いて<ruby>
@@ -162,13 +190,13 @@
162
190
  </ruby>だ。 <ruby>
163
191
  <rb>自惚</rb>
164
192
  <rt>うぬぼ</rt>
165
- </ruby>れているがよい。 <persName corresp="#メロス"
166
- >私</persName>は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」</said>と言いかけて、
167
- <persName corresp="#メロス">メロス</persName>は足もとに視線を落し瞬時ためらい、 <said
168
- who="#メロス">「ただ、<persName corresp="#メロス"
169
- >私</persName>に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。 たった一人の<persName
170
- corresp="#メロスの妹">妹</persName>に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、
171
- 私は<placeName>村</placeName>で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」</said>
193
+ </ruby>れているがよい。 <rs corresp="#メロス"
194
+ >私</rs>は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」</said>と言いかけて、 <persName
195
+ corresp="#メロス">メロス</persName>は足もとに視線を落し瞬時ためらい、 <said who="#メロス"
196
+ >「ただ、<rs corresp="#メロス">私</rs>に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。
197
+ たった一人の<persName corresp="#メロスの妹"
198
+ >妹</persName>に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、 私は<placeName type="unreal" corresp="#村"
199
+ >村</placeName>で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」</said>
172
200
  <said who="#ディオニス">「ばかな。」</said>と<persName corresp="#ディオニス">暴君</persName>は、<ruby>
173
201
  <rb>嗄</rb>
174
202
  <rt>しわが</rt>
@@ -177,17 +205,16 @@
177
205
  <rt>うそ</rt>
178
206
  </ruby>を言うわい。 逃がした小鳥が帰って来るというのか。」</said>
179
207
  <said who="#メロス">「そうです。帰って来るのです。」</said><persName corresp="#メロス"
180
- >メロス</persName>は必死で言い張った。 <said who="#メロス">「<persName corresp="#メロス"
181
- >私</persName>は約束を守ります。<persName corresp="#メロス"
182
- >私</persName>を、三日間だけ許して下さい。<persName corresp="#メロスの妹"
183
- >妹</persName>が、私の帰りを待っているのだ。 そんなに<persName corresp="#メロス"
184
- >私</persName>を信じられないならば、よろしい、この市に<persName corresp="#セリヌンティウス"
185
- >セリヌンティウス</persName>
186
- という<roleName>石工</roleName>がいます。私の無二の<persName
187
- corresp="#セリヌンティウス">友人</persName>だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。
188
- 私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの<persName corresp="#セリヌンティウス"
189
- >友人</persName>を絞め殺して下さい。 たのむ、そうして下さい。」</said> それを聞いて<persName
190
- corresp="#ディオニス">王</persName>は、残虐な気持で、そっと<ruby>
208
+ >メロス</persName>は必死で言い張った。 <said who="#メロス">「<rs corresp="#メロス"
209
+ >私</rs>は約束を守ります。<rs corresp="#メロス">私</rs>を、三日間だけ許して下さい。<persName
210
+ corresp="#メロスの妹">妹</persName>が、<rs corresp="#メロス">私</rs>の帰りを待っているのだ。 そんなに<rs
211
+ corresp="#メロス">私</rs>を信じられないならば、よろしい、この<placeName type="unreal" corresp="#市"
212
+ >市</placeName>に<persName corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>
213
+ という<roleName>石工</roleName>がいます。私の<persName corresp="#セリヌンティウス"
214
+ >無二の友人</persName>だ。<rs corresp="#セリヌンティウス">あれ</rs>を、人質としてここに置いて行こう。
215
+ 私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、<persName corresp="#セリヌンティウス"
216
+ >あの友人</persName>を絞め殺して下さい。 たのむ、そうして下さい。」</said> それを聞いて<rs
217
+ corresp="#ディオニス">王</rs>は、残虐な気持で、そっと<ruby>
191
218
  <rb>北叟笑</rb>
192
219
  <rt>ほくそえ</rt>
193
220
  </ruby>んだ。 生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この<persName corresp="#メロス"
@@ -202,19 +229,17 @@
202
229
  <rt>やつばら</rt>
203
230
  </ruby>にうんと見せつけてやりたいものさ。 <said who="#ディオニス">「願いを、聞いた。その<persName
204
231
  corresp="#セリヌンティウス"
205
- >身代り</persName>を呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その<persName
206
- corresp="#セリヌンティウス">身代り</persName>を、
207
- きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。<persName corresp="#メロス"
208
- >おまえ</persName>の罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」</said> 「なに、何をおっしゃる。」 <said
209
- who="#ディオニス">「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」</said>
232
+ >身代り</persName>を呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、<persName
233
+ corresp="#セリヌンティウス">その身代り</persName>を、 きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。<rs
234
+ corresp="#メロス">おまえ</rs>の罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」</said> 「なに、何をおっしゃる。」
235
+ <said who="#ディオニス">「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。<rs corresp="#メロス">おまえ</rs>の心は、わかっているぞ。」</said>
210
236
  <persName corresp="#メロス">メロス</persName>は口惜しく、<ruby>
211
237
  <rb>地団駄</rb>
212
238
  <rt>じだんだ</rt>
213
239
  </ruby>踏んだ。ものも言いたくなくなった。 </p>
214
- <p> 竹馬の友、<persName corresp="#セリヌンティウス"
215
- >セリヌンティウス</persName>は、深夜、<placeName>王城</placeName>に召された。 <persName
216
- corresp="#ディオニス">暴君ディオニス</persName>の面前で、<persName
217
- corresp="#セリヌンティウス #メロス"><ruby>
240
+ <p> 竹馬の友、<persName corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>は、<time when-custom="初日の深夜">深夜</time>、<placeName
241
+ type="real" corresp="#王城">王城</placeName>に召された。 <persName corresp="#ディオニス"
242
+ >暴君ディオニス</persName>の面前で、<persName corresp="#セリヌンティウス #メロス"><ruby>
218
243
  <rb>佳</rb>
219
244
  <rt>よ</rt>
220
245
  </ruby>き友と佳き友</persName>は、二年ぶりで相逢うた。<persName corresp="#メロス"
@@ -227,45 +252,45 @@
227
252
  corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>は、 縄打たれた。<persName
228
253
  corresp="#メロス">メロス</persName>は、すぐに出発した。初夏、満天の星である。</p>
229
254
  <p>
230
- <persName corresp="#メロス"
231
- >メロス</persName>はその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、<placeName>村</placeName>へ到着したのは、 <ruby>
255
+ <persName corresp="#メロス">メロス</persName>はその夜、一睡もせず<placeName type="real" corresp="#十里の路">十里の路</placeName>を急ぎに急いで、<placeName
256
+ type="real" corresp="#村">村</placeName>へ到着したのは、 <time when-custom="二日目の午前"><ruby>
232
257
  <rb>翌</rb>
233
258
  <rt>あく</rt>
234
- </ruby>る日の午前、 陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。<persName corresp="#メロス"
235
- >メロス</persName>の<persName corresp="#メロスの妹">十六の妹</persName>も、
236
- きょうは<persName corresp="#メロス"
259
+ </ruby>る日の午前</time>、 陽は既に高く昇って、<persName>村人たち</persName>は<placeName type="real" corresp="#野">野</placeName>に出て仕事をはじめていた。<persName
260
+ corresp="#メロス">メロス</persName>の<persName corresp="#メロスの妹"
261
+ >十六の妹</persName>も、 きょうは<persName corresp="#メロス"
237
262
  >兄</persName>の代りに<roleName>羊群の番</roleName>をしていた。よろめいて歩いて来る<persName
238
263
  corresp="#メロス">兄</persName>の、 疲労<ruby>
239
264
  <rb>困憊</rb>
240
265
  <rt>こんぱい</rt>
241
266
  </ruby>の姿を見つけて驚いた。そうして、 うるさく<persName corresp="#メロス">兄</persName>に質問を浴びせた。
242
267
  <said who="#メロス">「なんでも無い。」</said><persName corresp="#メロス"
243
- >メロス</persName>は無理に笑おうと努めた。 <said who="#メロス"
244
- >「<placeName>市</placeName>に用事を残して来た。またすぐ<placeName>市</placeName>に行かなければならぬ。
245
- あす、 <persName corresp="#メロスの妹"
246
- >おまえ</persName>の結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」</said>
268
+ >メロス</persName>は無理に笑おうと努めた。 <said who="#メロス">「<placeName type="unreal" corresp="#市"
269
+ >市</placeName>に用事を残して来た。またすぐ<placeName type="unreal" corresp="#市"
270
+ >市</placeName>に行かなければならぬ。 あす、 <rs corresp="#メロスの妹"
271
+ >おまえ</rs>の結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」</said>
247
272
  <persName corresp="#メロスの妹">妹</persName>は頬をあからめた。 <said who="#メロス">「うれしいか。<ruby>
248
273
  <rb>綺麗</rb>
249
274
  <rt>きれい</rt>
250
- </ruby>な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」</said>
251
- <persName corresp="#メロス"
252
- >メロス</persName>は、また、よろよろと歩き出し、<placeName>家</placeName>へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、
253
- 間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。 眼が覚めたのは夜だった。<persName corresp="#メロス"
254
- >メロス</persName>は起きてすぐ、<persName corresp="#メロスの妹の婿"
255
- >花婿</persName>の家を訪れた。そうして、 少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。<persName
256
- corresp="#メロスの妹の婿">婿の <roleName>牧人</roleName></persName>は驚き、 それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、<ruby>
275
+ </ruby>な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、<persName>村の人たち</persName>に知らせて来い。結婚式は、あすだと。」</said>
276
+ <persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、また、よろよろと歩き出し、<placeName type="real" corresp="#家"
277
+ >家</placeName>へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、 間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
278
+ 眼が覚めたのは<time when-custom="二日目の夜">夜</time>だった。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は起きてすぐ、<placeName
279
+ type="real" corresp="#花婿の家">花婿の家</placeName>を訪れた。そうして、
280
+ 少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。<persName corresp="#メロスの妹の婿">婿の
281
+ <roleName>牧人</roleName></persName>は驚き、 それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、<ruby>
257
282
  <rb>葡萄</rb>
258
283
  <rt>ぶどう</rt>
259
284
  </ruby>の季節まで待ってくれ、 と答えた。<persName corresp="#メロス"
260
285
  >メロス</persName>は、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。 <persName
261
286
  corresp="#メロスの妹の婿"
262
- >婿の<roleName>牧人</roleName></persName>も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、
263
- どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。</p>
264
- <p>結婚式は、真昼に行われた。 <persName corresp="#メロスの妹の婿">新郎</persName><persName
287
+ >婿の<roleName>牧人</roleName></persName>も頑強であった。なかなか承諾してくれない。<time when-custom="三日目の夜明け">夜明け</time>まで議論をつづけて、やっと、
288
+ どうにか<persName corresp="#メロスの妹の婿">婿</persName>をなだめ、すかして、説き伏せた。</p>
289
+ <p>結婚式は、<time when-custom="三日目の昼">真昼</time>に行われた。 <persName corresp="#メロスの妹の婿">新郎</persName><persName
265
290
  corresp="#メロスの妹">新婦</persName>の、
266
291
  神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような
267
- 大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、
268
- めいめい気持を引きたて、狭い<placeName>家</placeName>の中で、むんむん蒸し暑いのも<ruby>
292
+ 大雨となった。祝宴に列席していた<persName>村人</persName>たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、 めいめい気持を引きたて、狭い<placeName
293
+ type="real" corresp="#家">家</placeName>の中で、むんむん蒸し暑いのも<ruby>
269
294
  <rb>怺</rb>
270
295
  <rt>こら</rt>
271
296
  </ruby>え、陽気に歌をうたい、 手を<ruby>
@@ -275,70 +300,72 @@
275
300
  <rb>湛</rb>
276
301
  <rt>たた</rt>
277
302
  </ruby>え、しばらくは、 <persName corresp="#ディオニス"
278
- >王</persName>とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、
303
+ >王</persName>とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、<time when-custom="三日目の夜">夜</time>に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、
279
304
  外の豪雨を全く気にしなくなった。<persName corresp="#メロス"
280
305
  >メロス</persName>は、一生このままここにいたい、と思った。
281
306
  この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。 ままならぬ事である。<persName
282
307
  corresp="#メロス">メロス</persName>は、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、
283
- まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、
284
- 雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。<persName corresp="#メロス">メロス
285
- ほどの男</persName>にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい<persName
286
- corresp="#メロスの妹">花嫁</persName>に近寄り、 <said who="#メロス">「おめでとう。<persName
287
- corresp="#メロス">私</persName>は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、
288
- すぐに<placeName>市</placeName>に出かける。 大切な用事があるのだ。<persName
289
- corresp="#メロス">私</persName>がいなくても、もう<persName corresp="#メロスの妹"
290
- >おまえ</persName>には<persName corresp="#メロスの妹の婿"
308
+ まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、 雨も小降りになっていよう。少しでも永く<placeName
309
+ type="real" corresp="#家">この家</placeName>に愚図愚図とどまっていたかった。<persName corresp="#メロス"
310
+ >メロス ほどの男</persName>にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい<persName
311
+ corresp="#メロスの妹">花嫁</persName>に近寄り、 <said who="#メロス">「おめでとう。<rs
312
+ corresp="#メロス">私</rs>は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、
313
+ すぐに<placeName type="unreal" corresp="#市">市</placeName>に出かける。 大切な用事があるのだ。<rs
314
+ corresp="#メロス">私</rs>がいなくても、もう<rs corresp="#メロスの妹"
315
+ >おまえ</rs>には<persName corresp="#メロスの妹の婿"
291
316
  >優しい亭主</persName>があるのだから、決して寂しい事は無い。 <persName corresp="#メロス"
292
- >おまえの兄</persName>の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、 嘘をつく事だ。<persName
293
- corresp="#メロスの妹">おまえ</persName>も、それは、知っているね。<persName
294
- corresp="#メロスの妹の婿">亭主</persName>との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。 <persName
295
- corresp="#メロスの妹">おまえ</persName>に言いたいのは、それだけだ。<persName
296
- corresp="#メロスの妹">おまえ</persName>の<persName corresp="#メロス"
297
- >兄</persName>は、<persName corresp="#メロス"
298
- >たぶん偉い男</persName>なのだから、<persName corresp="#メロスの妹"
299
- >おまえ</persName>もその誇りを 持っていろ。」</said>
317
+ >おまえの兄</persName>の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、 嘘をつく事だ。<rs
318
+ corresp="#メロスの妹">おまえ</rs>も、それは、知っているね。<persName
319
+ corresp="#メロスの妹の婿">亭主</persName>との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。 <rs
320
+ corresp="#メロスの妹">おまえ</rs>に言いたいのは、それだけだ。<rs corresp="#メロスの妹"
321
+ >おまえ</rs>の<persName corresp="#メロス">兄</persName>は、<persName
322
+ corresp="#メロス">たぶん偉い男</persName>なのだから、<rs corresp="#メロスの妹"
323
+ >おまえ</rs>もその誇りを 持っていろ。」</said>
300
324
  <persName corresp="#メロスの妹">花嫁</persName>は、夢見心地で<ruby>
301
325
  <rb>首肯</rb>
302
326
  <rt>うなず</rt>
303
327
  </ruby>いた。 <persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、それから<persName
304
328
  corresp="#メロスの妹の婿">花婿</persName>の肩をたたいて、 <said who="#メロス"
305
- >「仕度の無いのはお互さまさ。<persName corresp="#メロス"
306
- >私</persName>の家にも、宝といっては、<persName corresp="#メロスの妹"
307
- >妹</persName>と羊だけだ。他には、何も無い。 全部あげよう。もう一つ、<persName corresp="#メロス"
308
- >メロス</persName>の<persName corresp="#メロスの妹の婿"
309
- >弟</persName>になったことを誇ってくれ。」</said>
329
+ >「仕度の無いのはお互さまさ。<rs corresp="#メロス">私</rs>の家にも、宝といっては、<persName
330
+ corresp="#メロスの妹">妹</persName>と羊だけだ。他には、何も無い。
331
+ 全部あげよう。もう一つ、<persName corresp="#メロス">メロス</persName>の<persName
332
+ corresp="#メロスの妹の婿">弟</persName>になったことを誇ってくれ。」</said>
310
333
  <persName corresp="#メロスの妹の婿">花婿</persName>は<ruby>
311
334
  <rb>揉</rb>
312
335
  <rt>も</rt>
313
- </ruby>み手して、てれていた。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は笑って村人たちにも<ruby>
336
+ </ruby>み手して、てれていた。<persName corresp="#メロス"
337
+ >メロス</persName>は笑って<persName>村人たち</persName>にも<ruby>
314
338
  <rb> 会釈</rb>
315
339
  <rt>えしゃく</rt>
316
- </ruby> して、宴席から立ち去り、<placeName>羊小屋</placeName>にもぐり込んで、死んだように深く眠った。</p>
317
- <p> 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。<persName corresp="#メロス"
340
+ </ruby> して、宴席から立ち去り、<placeName type="real" corresp="#羊小屋"
341
+ >羊小屋</placeName>にもぐり込んで、死んだように深く眠った。</p>
342
+ <p> 眼が覚めたのは<time when-custom="四日目の朝">翌る日の薄明の頃</time>である。<persName corresp="#メロス"
318
343
  >メロス</persName>は跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、
319
344
  これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの<persName corresp="#ディオニス"
320
- >王</persName>に、人の信実の存する ところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。<persName
321
- corresp="#メロス">メロス</persName>は、悠々と身仕度をはじめた。雨も、
322
- いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。 </p>
323
- <p>さて、<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、ぶるんと両腕を大きく振って、 雨中、矢の如く走り出た。
324
- <persName corresp="#メロス">私</persName>は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。<persName
345
+ >王</persName>に、人の信実の存する ところを見せてやろう。そうして笑って<placeName type="unreal" corresp="#磔台"
346
+ >磔の台</placeName>に上ってやる。<persName corresp="#メロス"
347
+ >メロス</persName>は、悠々と身仕度をはじめた。雨も、 いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。 </p>
348
+ <p>さて、<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、ぶるんと両腕を大きく振って、 雨中、矢の如く走り出た。 <rs
349
+ corresp="#メロス">私</rs>は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。<persName
325
350
  corresp="#セリヌンティウス">身代りの友</persName>を救う為に走るのだ。<persName
326
351
  corresp="#ディオニス">王</persName>の <ruby>
327
352
  <rb>奸佞</rb>
328
353
  <rt>かんねい</rt>
329
- </ruby> 邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、<persName corresp="#メロス"
330
- >私</persName>は殺される。若い時から名誉を守れ。 さらば、ふるさと。若い<persName corresp="#メロス"
331
- >メロス</persName>は、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。
332
- えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。<placeName>村</placeName>を出て、<placeName>野</placeName>
333
- を横切り、森をくぐり抜け、<placeName>隣村</placeName>に着いた頃には、 雨も<ruby>
354
+ </ruby> 邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、<rs corresp="#メロス"
355
+ >私</rs>は殺される。若い時から名誉を守れ。 さらば、ふるさと。若い<persName corresp="#メロス"
356
+ >メロス</persName>は、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。 えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。<placeName
357
+ type="real" corresp="#村">村</placeName>を出て、<placeName type="real" corresp="#野2">野</placeName>
358
+ を横切り、<placeName type="real" corresp="#森">森</placeName>をくぐり抜け、<placeName type="real" corresp="#隣村"
359
+ >隣村</placeName>に着いた頃には、 雨も<ruby>
334
360
  <rb>止</rb>
335
361
  <rt>や</rt>
336
- </ruby>み 、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は<ruby>
362
+ </ruby>み 、<time when-custom="四日目の昼">日は高く昇って</time>、そろそろ暑くなって来た。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は<ruby>
337
363
  <rb>額</rb>
338
364
  <rt>ひたい</rt>
339
- </ruby>の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、
340
- もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。
341
- まっすぐに<placeName>王城</placeName>に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。 ゆっくり歩こう、と持ちまえの<ruby>
365
+ </ruby>の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、 もはや故郷への未練は無い。<persName
366
+ corresp="#メロスの妹 #メロスの妹の婿"
367
+ >妹たち</persName>は、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。 まっすぐに<placeName
368
+ type="unreal" corresp="#王城">王城</placeName>に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。 ゆっくり歩こう、と持ちまえの<ruby>
342
369
  <rb>呑気</rb>
343
370
  <rt>のんき</rt>
344
371
  </ruby>さを取り返し、 好きな小歌をいい声で歌い出した。</p>
@@ -346,34 +373,34 @@
346
373
  <rb>湧</rb>
347
374
  <rt>わ</rt>
348
375
  </ruby>いた災難、 <persName corresp="#メロス"
349
- >メロス</persName>の足は、はたと、とまった。見よ、前方の<placeName>川</placeName>を。
350
- きのうの豪雨で<placeName>山の水源地</placeName>は<ruby>
376
+ >メロス</persName>の足は、はたと、とまった。見よ、前方の<placeName type="real" corresp="#川"
377
+ >川</placeName>を。 きのうの豪雨で<placeName type="unreal" corresp="#山の水源地">山の水源地</placeName>は<ruby>
351
378
  <rb>氾濫</rb>
352
379
  <rt>はんらん</rt>
353
380
  </ruby>し、 濁流<ruby>
354
381
  <rb>滔々</rb>
355
382
  <rt>とうとう</rt>
356
- </ruby>と下流に集り、猛勢一挙に<placeName>橋</placeName>を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、 <ruby>
383
+ </ruby>と下流に集り、猛勢一挙に<placeName type="real" corresp="#橋">橋</placeName>を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、 <ruby>
357
384
  <rb>木葉微塵</rb>
358
385
  <rt>こっぱみじん</rt>
359
386
  </ruby>に<ruby>
360
387
  <rb>橋桁</rb>
361
388
  <rt>はしげた</rt>
362
- </ruby>を跳ね飛ばしていた。<persName corresp="#メロス"
363
- >彼</persName>は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、 また、声を限りに呼びたててみたが、<ruby>
389
+ </ruby>を跳ね飛ばしていた。<rs corresp="#メロス">彼</rs>は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、 また、声を限りに呼びたててみたが、<ruby>
364
390
  <rb>繋舟</rb>
365
391
  <rt>けいしゅう</rt>
366
392
  </ruby>は残らず浪に<ruby>
367
393
  <rb>浚</rb>
368
394
  <rt>さら</rt>
369
- </ruby>われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、 海のようになっている。<persName corresp="#メロス"
370
- >メロス</persName>は川岸にうずくまり、 男泣きに泣きながら<persName corresp="#ゼウス"
395
+ </ruby>われて影なく、<roleName>渡守り</roleName>の姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、
396
+ 海のようになっている。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は<placeName
397
+ type="real" corresp="#川岸">川岸</placeName>にうずくまり、 男泣きに泣きながら<persName corresp="#ゼウス"
371
398
  >ゼウス</persName>に手を挙げて哀願した。 <said who="#メロス">「ああ、<ruby>
372
399
  <rb>鎮</rb>
373
400
  <rt>しず</rt>
374
- </ruby>めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、
375
- <placeName>王城</placeName>に行き着くことが出来 なかったら、あの<persName
376
- corresp="#セリヌンティウス">佳い友達</persName>が、私のために死ぬのです。」</said>
401
+ </ruby>めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に<time when-custom="四日目の昼">真昼時</time>です。あれが沈んでしまわぬうちに、 <placeName
402
+ type="unreal" corresp="#王城">王城</placeName>に行き着くことが出来 なかったら、あの<persName
403
+ corresp="#セリヌンティウス">佳い友達</persName>が、<rs corresp="#メロス">私</rs>のために死ぬのです。」</said>
377
404
  濁流は、<persName corresp="#メロス"
378
405
  >メロス</persName>の叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、 <ruby>
379
406
  <rb>煽</rb>
@@ -387,18 +414,19 @@
387
414
  </ruby>きわけ掻きわけ、 めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに<ruby>
388
415
  <rb>憐愍</rb>
389
416
  <rt>れんびん</rt>
390
- </ruby>を垂れてくれた。押し流されつつも、 見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。<persName
391
- corresp="#メロス">メロス</persName>は馬のように大きな胴震いを一つして、
392
- すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。 </p>
393
- <p>ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の<roleName>山賊</roleName>が躍り出た。
417
+ </ruby>を垂れてくれた。押し流されつつも、 見事、<placeName type="real" corresp="#対岸"
418
+ >対岸</placeName>の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。<persName corresp="#メロス"
419
+ >メロス</persName>は馬のように大きな胴震いを一つして、
420
+ すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。<time when-custom="四日目の午後">陽は既に西に傾きかけている</time>。 </p>
421
+ <p>ぜいぜい荒い呼吸をしながら<placeName type="real" corresp="#峠"
422
+ >峠</placeName>をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の<roleName>山賊</roleName>が躍り出た。
394
423
  <said>「待て。」</said>
395
- <said who="#メロス">「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」</said>
396
- 「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」 <said who="#メロス">「<persName corresp="#メロス"
397
- >私</persName>にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから<persName
398
- corresp="#ディオニス">王</persName>にくれてやるのだ。」 </said> 「その、いのちが欲しいのだ。」
399
- <said who="#メロス">「さては、<persName corresp="#ディオニス"
400
- >王</persName>の命令で、ここで<persName corresp="#メロス"
401
- >私</persName>を待ち伏せしていたのだな。」</said>
424
+ <said who="#メロス">「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに<placeName type="unreal" corresp="#王城">王城</placeName>へ行かなければならぬ。放せ。」</said>
425
+ 「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」 <said who="#メロス">「<rs corresp="#メロス"
426
+ >私</rs>にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから<persName corresp="#ディオニス"
427
+ >王</persName>にくれてやるのだ。」 </said> 「その、いのちが欲しいのだ。」 <said who="#メロス"
428
+ >「さては、<persName corresp="#ディオニス">王</persName>の命令で、ここで<rs
429
+ corresp="#メロス">私</rs>を待ち伏せしていたのだな。」</said>
402
430
  <roleName>山賊</roleName>たちは、ものも言わず一斉に<ruby>
403
431
  <rb>棍棒</rb>
404
432
  <rt>こんぼう</rt>
@@ -407,11 +435,11 @@
407
435
  who="#メロス">「気の毒だが正義のためだ!」</said>と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、 残る者のひるむ<ruby>
408
436
  <rb>隙</rb>
409
437
  <rt>すき</rt>
410
- </ruby>に、 さっさと走って峠を下った。</p>
411
- <p>一気に峠を駈け降りたが、<ruby>
438
+ </ruby>に、 さっさと走って<placeName type="real" corresp="#峠">峠</placeName>を下った。</p>
439
+ <p>一気に<placeName type="real" corresp="#峠">峠</placeName>を駈け降りたが、<ruby>
412
440
  <rb>流石</rb>
413
441
  <rt>さすが</rt>
414
- </ruby>に疲労し、 折から午後の<ruby>
442
+ </ruby>に疲労し、 折から<time when-custom="四日目の午後">午後</time>の<ruby>
415
443
  <rb>灼熱</rb>
416
444
  <rt>しゃくねつ</rt>
417
445
  </ruby>の太陽がまともに、かっと照って来て、<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は幾度となく<ruby>
@@ -424,9 +452,8 @@
424
452
  <rt>いだてん</rt>
425
453
  </ruby>、ここまで突破して来た<persName corresp="#メロス">メロス</persName>よ。 <persName
426
454
  corresp="#メロス">真の勇者、メロス</persName>よ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。<persName
427
- corresp="#セリヌンティウス">愛する友</persName>は、<persName corresp="#メロス"
428
- >おまえ</persName>を信じたばかりに、 やがて殺されなければならぬ。<persName corresp="#メロス"
429
- >おまえ</persName>は、<ruby>
455
+ corresp="#セリヌンティウス">愛する友</persName>は、<rs corresp="#メロス"
456
+ >おまえ</rs>を信じたばかりに、 やがて殺されなければならぬ。<rs corresp="#メロス">おまえ</rs>は、<ruby>
430
457
  <rb>稀代</rb>
431
458
  <rt>きたい</rt>
432
459
  </ruby>の不信の人間、 まさしく<persName corresp="#ディオニス">王</persName>の思う<ruby>
@@ -438,75 +465,71 @@
438
465
  </ruby>えて、もはや <ruby>
439
466
  <rb>芋虫</rb>
440
467
  <rt>いもむし</rt>
441
- </ruby>ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、 精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな<ruby>
468
+ </ruby>ほどにも前進かなわぬ。<placeName type="real" corresp="#路傍の草原"
469
+ >路傍の草原</placeName>にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、 精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな<ruby>
442
470
  <rb>不貞腐</rb>
443
471
  <rt>ふてくさ</rt>
444
- </ruby>れた根性が、心の隅に巣喰った。 <persName corresp="#メロス"
445
- >私</persName>は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、<persName
446
- corresp="#メロス">私</persName>は精一ぱいに努めて来たのだ。 動けなくなるまで走って来たのだ。<persName
447
- corresp="#メロス">私</persName>は不信の徒では無い。ああ、できる事なら<persName corresp="#メロス"
448
- >私</persName>の胸を<ruby>
472
+ </ruby>れた根性が、心の隅に巣喰った。 <rs corresp="#メロス"
473
+ >私</rs>は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、<rs corresp="#メロス"
474
+ >私</rs>は精一ぱいに努めて来たのだ。 動けなくなるまで走って来たのだ。<rs corresp="#メロス"
475
+ >私</rs>は不信の徒では無い。ああ、できる事なら<rs corresp="#メロス">私</rs>の胸を<ruby>
449
476
  <rb>截</rb>
450
477
  <rt>た</rt>
451
- </ruby>ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。 愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども<persName
452
- corresp="#メロス">私</persName>は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。 私は、<persName
453
- corresp="#メロス">よくよく不幸な男</persName>だ。<persName corresp="#メロス"
454
- >私</persName>は、きっと笑われる。<persName corresp="#メロス">私</persName>の一家も笑われる。
455
- <persName corresp="#メロス">私</persName>は<persName corresp="#セリヌンティウス"
456
- >友</persName>を<ruby>
478
+ </ruby>ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。 愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども<rs
479
+ corresp="#メロス">私</rs>は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。 <rs corresp="#メロス">私</rs>は、<persName corresp="#メロス"
480
+ >よくよく不幸な男</persName>だ。<rs corresp="#メロス">私</rs>は、きっと笑われる。<persName
481
+ corresp="#メロス #メロスの一家">私の一家</persName>も笑われる。 <rs corresp="#メロス"
482
+ >私</rs>は<persName corresp="#セリヌンティウス">友</persName>を<ruby>
457
483
  <rb>欺</rb>
458
484
  <rt>あざむ</rt>
459
- </ruby>いた。中途で倒れるのは、 はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、<persName
460
- corresp="#メロス">私</persName>の定った運命なのかも知れない。 <persName
461
- corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>よ、ゆるしてくれ。<persName
462
- corresp="#セリヌンティウス">君</persName>は、いつでも<persName corresp="#メロス"
463
- >私</persName> を信じた。<persName corresp="#メロス">私</persName>も<persName
464
- corresp="#セリヌンティウス">君</persName>を、欺かなかった。<persName
465
- corresp="#セリヌンティウス #メロス">私たち</persName>は、 本当に佳い<persName
466
- corresp="#セリヌンティウス #メロス"
467
- >友と友</persName>であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、 <persName
468
- corresp="#セリヌンティウス">君</persName>は <persName corresp="#メロス"
469
- >私</persName>を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、<persName
470
- corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>。よくも私を信じてくれた。
471
- それを思えば、たまらない。<persName corresp="#セリヌンティウス #メロス"
472
- >友と友</persName>の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。 <persName corresp="#セリヌンティウス"
473
- >セリヌンティウス</persName>、 <persName corresp="#メロス">私</persName>は走ったのだ。
474
- <persName corresp="#セリヌンティウス">君</persName>を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ!
475
- <persName corresp="#メロス"
476
- >私</persName>は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。<roleName>山賊</roleName>の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。
477
- <persName corresp="#メロス">私</persName>だから、出来たのだよ。ああ、この上、<persName
478
- corresp="#メロス">私</persName>に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。 <persName
479
- corresp="#メロス">私</persName>は負けたのだ。 だらしが無い。笑ってくれ。<persName
480
- corresp="#ディオニス">王</persName>は<persName corresp="#メロス"
481
- >私</persName>に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、 <persName corresp="#セリヌンティウス"
482
- >身代り</persName>を殺して、 <persName corresp="#メロス"
483
- >私</persName>を助けてくれると約束した。<persName corresp="#メロス"
484
- >私</persName>は<persName corresp="#ディオニス"
485
- >王</persName>の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、 <persName corresp="#メロス"
486
- >私</persName>は<persName corresp="#ディオニス">王</persName>の言うままになっている。
487
- <persName corresp="#メロス">私</persName>は、おくれて行くだろう。<persName
488
- corresp="#ディオニス">王</persName>は、ひとり合点して<persName corresp="#メロス"
489
- >私</persName> を笑い、そうして事も無く<persName corresp="#メロス"
490
- >私</persName>を放免するだろう。そうなったら、 <persName corresp="#メロス"
491
- >私</persName>は、死ぬよりつらい。 <persName corresp="#メロス">私</persName>は、永遠に<persName
492
- corresp="#メロス">裏切者</persName>だ。 <persName corresp="#メロス"
485
+ </ruby>いた。中途で倒れるのは、 はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、<rs corresp="#メロス"
486
+ >私</rs>の定った運命なのかも知れない。 <persName corresp="#セリヌンティウス"
487
+ >セリヌンティウス</persName>よ、ゆるしてくれ。<rs corresp="#セリヌンティウス">君</rs>は、いつでも<rs
488
+ corresp="#メロス">私</rs> を信じた。<rs corresp="#メロス">私</rs>も<rs
489
+ corresp="#セリヌンティウス">君</rs>を、欺かなかった。<rs corresp="#セリヌンティウス #メロス"
490
+ >私たち</rs>は、 本当に佳い<persName corresp="#セリヌンティウス #メロス"
491
+ >友と友</persName>であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、 <rs
492
+ corresp="#セリヌンティウス">君</rs>は <rs corresp="#メロス"
493
+ >私</rs>を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、<persName corresp="#セリヌンティウス"
494
+ >セリヌンティウス</persName>。よくも私を信じてくれた。 それを思えば、たまらない。<persName
495
+ corresp="#セリヌンティウス #メロス">友と友</persName>の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。
496
+ <persName corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>、 <rs corresp="#メロス"
497
+ >私</rs>は走ったのだ。 <rs corresp="#セリヌンティウス">君</rs>を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ!
498
+ <rs corresp="#メロス"
499
+ >私</rs>は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。<roleName>山賊</roleName>の囲みからも、するりと抜けて一気に<placeName
500
+ type="unreal" corresp="#峠">峠</placeName>を駈け降りて来たのだ。 <rs corresp="#メロス"
501
+ >私</rs>だから、出来たのだよ。ああ、この上、<rs corresp="#メロス"
502
+ >私</rs>に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。 <rs corresp="#メロス">私</rs>は負けたのだ。
503
+ だらしが無い。笑ってくれ。<persName corresp="#ディオニス">王</persName>は<rs
504
+ corresp="#メロス">私</rs>に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、 <persName
505
+ corresp="#セリヌンティウス">身代り</persName>を殺して、 <rs corresp="#メロス"
506
+ >私</rs>を助けてくれると約束した。<rs corresp="#メロス">私</rs>は<persName
507
+ corresp="#ディオニス">王</persName>の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、 <rs corresp="#メロス"
508
+ >私</rs>は<persName corresp="#ディオニス">王</persName>の言うままになっている。 <rs
509
+ corresp="#メロス">私</rs>は、おくれて行くだろう。<persName corresp="#ディオニス"
510
+ >王</persName>は、ひとり合点して<rs corresp="#メロス">私</rs> を笑い、そうして事も無く<rs
511
+ corresp="#メロス">私</rs>を放免するだろう。そうなったら、 <rs corresp="#メロス"
512
+ >私</rs>は、死ぬよりつらい。 <rs corresp="#メロス">私</rs>は、永遠に<persName corresp="#メロス"
513
+ >裏切者</persName>だ。 <persName corresp="#メロス"
493
514
  >地上で最も、不名誉の人種</persName>だ。<persName corresp="#セリヌンティウス"
494
- >セリヌンティウス</persName>よ、 <persName corresp="#メロス"
495
- >私</persName>も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか?
515
+ >セリヌンティウス</persName>よ、 <rs corresp="#メロス"
516
+ >私</rs>も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか?
496
517
  ああ、もういっそ、<persName corresp="#メロス"
497
- >悪徳者</persName>として生き伸びてやろうか。<placeName>村</placeName>には私の家が在る。
498
- 羊も居る。<persName corresp="#メロスの妹 #メロスの妹の婿">妹夫婦</persName>は、 まさか<persName
499
- corresp="#メロス"
500
- >私</persName>を<placeName>村</placeName>から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、
501
- くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、 ばかばかしい。<persName corresp="#メロス"
502
- >私</persName>は、<persName corresp="#メロス">醜い裏切り者</persName>だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる<ruby>
518
+ >悪徳者</persName>として生き伸びてやろうか。<placeName type="unreal" corresp="#村"
519
+ >村</placeName>には<placeName type="unreal" corresp="#家">私の家</placeName>が在る。
520
+ 羊も居る。<persName corresp="#メロスの妹 #メロスの妹の婿">妹夫婦</persName>は、 まさか<rs
521
+ corresp="#メロス">私</rs>を<placeName type="unreal" corresp="#村"
522
+ >村</placeName>から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、
523
+ くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、 ばかばかしい。<rs corresp="#メロス"
524
+ >私</rs>は、<persName corresp="#メロス">醜い裏切り者</persName>だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる<ruby>
503
525
  <rb>哉</rb>
504
526
  <rt>かな</rt>
505
527
  </ruby>。――四肢を投げ出して、 うとうと、まどろんでしまった。</p>
506
528
  <p> ふと耳に、<ruby>
507
529
  <rb>潺々</rb>
508
530
  <rt>せんせん</rt>
509
- </ruby>、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、 水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から<ruby>
531
+ </ruby>、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、
532
+ 水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、<placeName type="real" corresp="#岩の裂目">岩の裂目</placeName>から<ruby>
510
533
  <rb>滾々</rb>
511
534
  <rt>こんこん</rt>
512
535
  </ruby>と、何か小さく<ruby>
@@ -519,27 +542,29 @@
519
542
  </ruby>って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、 夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労<ruby>
520
543
  <rb>恢復</rb>
521
544
  <rt>かいふく</rt>
522
- </ruby>と共に、わずかながら希望が生れた。 義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、
523
- 葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。
524
- 少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、
545
+ </ruby>と共に、わずかながら希望が生れた。 義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。<time when-custom="四日目の夕方">斜陽</time>は赤い光を、樹々の葉に投じ、
546
+ 葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。<rs corresp="#メロス">私</rs>を、待っている人があるのだ。
547
+ 少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。<rs corresp="#メロス">私</rs>は、信じられている。<rs corresp="#メロス">私</rs>の命なぞは、
525
548
  問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。 いまはただその一事だ。走れ! <persName
526
549
  corresp="#メロス">メロス</persName>。
527
- 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、
528
- ふいとあんな悪い夢を見るものだ。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>、おまえの恥ではない。
529
- やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! <persName corresp="#メロス"
530
- >私</persName>は、<persName corresp="#メロス"
550
+ <rs corresp="#メロス">私</rs>は信頼されている。<rs corresp="#メロス">私</rs>は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、
551
+ ふいとあんな悪い夢を見るものだ。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>、<rs corresp="#メロス">おまえ</rs>の恥ではない。
552
+ やはり、<rs corresp="#メロス">おまえ</rs>は真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! <rs corresp="#メロス"
553
+ >私</rs>は、<persName corresp="#メロス"
531
554
  >正義の士</persName>として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、<persName
532
- corresp="#ゼウス">ゼウス</persName>よ。 <persName corresp="#メロス"
533
- >私</persName>は生れた時から<persName corresp="#メロス"
534
- >正直な男</persName>であった。<persName corresp="#メロス"
535
- >正直な男</persName>のままにして死なせて下さい。</p>
536
- <p> 路行く人を押しのけ、<ruby>
555
+ corresp="#ゼウス">ゼウス</persName>よ。 <rs corresp="#メロス"
556
+ >私</rs>は生れた時から<persName corresp="#メロス">正直な男</persName>であった。<persName
557
+ corresp="#メロス">正直な男</persName>のままにして死なせて下さい。</p>
558
+ <p> <persName>路行く人</persName>を押しのけ、<ruby>
537
559
  <rb>跳</rb>
538
560
  <rt>は</rt>
539
- </ruby>ねとばし、<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は黒い風のように走った。野原で酒宴の、 その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を<ruby>
561
+ </ruby>ねとばし、<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は黒い風のように走った。<placeName
562
+ type="real" corresp="#野原">野原</placeName>で酒宴の、
563
+ その宴席のまっただ中を駈け抜け、<persName>酒宴の人たち</persName>を仰天させ、犬を<ruby>
540
564
  <rb>蹴</rb>
541
565
  <rt>け</rt>
542
- </ruby>とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、 十倍も早く走った。一団の旅人と<ruby>
566
+ </ruby>とばし、<placeName type="real" corresp="#小川">小川</placeName>を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、
567
+ 十倍も早く走った。<persName>一団の旅人</persName>と<ruby>
543
568
  <rb>颯</rb>
544
569
  <rt>さ</rt>
545
570
  </ruby>っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。<said>「いまごろは、<persName corresp="#セリヌンティウス"
@@ -549,39 +574,40 @@
549
574
  >その男</persName>を死なせてはならない。急げ、<persName corresp="#メロス"
550
575
  >メロス</persName>。おくれてはならぬ。 愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。<persName
551
576
  corresp="#メロス">メロス</persName>は、いまは、ほとんど全裸体であった。
552
- 呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、<placeName>シラクス</placeName>の市の塔楼が見える。
553
- 塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。</p>
577
+ 呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、<placeName type="real" corresp="#塔楼"
578
+ >シラクスの市の塔楼</placeName>が見える。 <placeName type="real" corresp="#塔楼"
579
+ >塔楼</placeName>は、<time when-custom="四日目の夕方">夕陽</time>を受けてきらきら光っている。</p>
554
580
  <p>
555
581
  <said>「ああ、<persName corresp="#メロス">メロス</persName>様。」</said>うめくような声が、風と共に聞えた。
556
582
  <said who="#メロス">「誰だ。」</said><persName corresp="#メロス"
557
583
  >メロス</persName>は走りながら尋ねた。 <said>「<persName corresp="#フィロストラトス"
558
- >フィロストラトス</persName>でございます。貴方のお友達 <persName corresp="#セリヌンティウス"
559
- >セリヌンティウス</persName>様の弟子でございます。」</said>
584
+ >フィロストラトス</persName>でございます。<rs corresp="#メロス">貴方</rs>の<persName corresp="#セリヌンティウス"
585
+ >お友達セリヌンティウス様</persName>の<roleName>弟子</roleName>でございます。」</said>
560
586
  その若い<roleName>石工</roleName>も、<persName corresp="#メロス"
561
- >メロス</persName>の後について走りながら叫んだ。 <said>「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの<ruby>
587
+ >メロス</persName>の後について走りながら叫んだ。 <said>「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、<rs corresp="#セリヌンティウス">あの<ruby>
562
588
  <rb>方</rb>
563
589
  <rt>かた</rt>
564
- </ruby>をお助けになることは出来ません。」</said>
590
+ </ruby></rs>をお助けになることは出来ません。」</said>
565
591
  <said who="#メロス">「いや、まだ陽は沈まぬ。」</said>
566
- <said>「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」</said>
592
+ <said>「ちょうど今、<rs corresp="#セリヌンティウス">あの方</rs>が死刑になるところです。ああ、<rs corresp="#メロス">あなた</rs>は遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」</said>
567
593
  <said who="#メロス">「いや、まだ陽は沈まぬ。」</said><persName corresp="#メロス"
568
594
  >メロス</persName>は胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
569
- <said>「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。
570
- 刑場に引き出されても、平気でいました。<persName corresp="#ディオニス"
571
- >王様</persName>が、さんざんあの方をからかっても、<persName corresp="#メロス"
572
- >メロス</persName> は来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」</said>
595
+ <said>「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまは<rs corresp="#メロス">ご自分</rs>のお命が大事です。<rs corresp="#セリヌンティウス">あの方</rs>は、<rs corresp="#メロス">あなた</rs>を信じて居りました。 <placeName
596
+ type="unreal">刑場</placeName>に引き出されても、平気でいました。<persName
597
+ corresp="#ディオニス">王様</persName>が、さんざん<rs corresp="#セリヌンティウス">あの方</rs>をからかっても、<persName
598
+ corresp="#メロス">メロス</persName>
599
+ は来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」</said>
573
600
  <said who="#メロス">「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。
574
- 人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! <persName
601
+ 人の命も問題でないのだ。<rs corresp="#メロス">私</rs>は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! <persName
575
602
  corresp="#フィロストラトス">フィロストラトス</persName>。」</said>
576
- <said who="#フィロストラトス">「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、
603
+ <said who="#フィロストラトス">「ああ、<rs corresp="#メロス">あなた</rs>は気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、
577
604
  間に合わぬものでもない。走るがいい。」</said> 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、<persName
578
605
  corresp="#メロス">メロス</persName> は走った。<persName corresp="#メロス"
579
606
  >メロス</persName>の頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。 ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。 </p>
580
- <p>陽は、ゆらゆら地平線に没し、
581
- まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く<placeName>刑場</placeName>に突入した。間に合った。 <said
582
- who="#メロス">「待て。その人を殺してはならぬ。<persName corresp="#メロス"
583
- >メロス</persName>が帰って来た。
584
- 約束のとおり、いま、帰って来た。」</said>と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、 <ruby>
607
+ <p><time when-custom="四日目の日没直前">陽は、ゆらゆら地平線に没し、 まさに最後の一片の残光も、消えようとした時</time>、<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は疾風の如く<placeName type="real" corresp="#刑場"
608
+ >刑場</placeName>に突入した。間に合った。 <said who="#メロス">「待て。<rs corresp="#セリヌンティウス">その人</rs>を殺してはならぬ。<persName
609
+ corresp="#メロス">メロス</persName>が帰って来た。
610
+ 約束のとおり、いま、帰って来た。」</said>と大声で<placeName corresp="#刑場">刑場</placeName>の<persName>群衆</persName>にむかって叫んだつもりであったが、 <ruby>
585
611
  <rb>喉</rb>
586
612
  <rt>のど</rt>
587
613
  </ruby>がつぶれて<ruby>
@@ -590,67 +616,74 @@
590
616
  </ruby>れた声が<ruby>
591
617
  <rb>幽</rb>
592
618
  <rt>かす</rt>
593
- </ruby>かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、 縄を打たれた<persName
594
- corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>は、徐々に釣り上げられてゆく。<persName
595
- corresp="#メロス">メロス</persName>は それを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
596
- <said who="#メロス">「私だ、<roleName>刑吏</roleName>! 殺されるのは、私だ。<persName
597
- corresp="#メロス">メロス</persName>だ。彼を人質にした私は、ここにいる!」</said>
598
- と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく<persName corresp="#セリヌンティウス"
599
- >友</persName>の両足に、 <ruby>
619
+ </ruby>かに出たばかり、<persName>群衆</persName>は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、
620
+ 縄を打たれた<persName corresp="#セリヌンティウス"
621
+ >セリヌンティウス</persName>は、徐々に釣り上げられてゆく。<persName corresp="#メロス"
622
+ >メロス</persName>は それを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように<persName>群衆</persName>を掻きわけ、掻きわけ、 <said
623
+ who="#メロス">「<rs corresp="#メロス">私</rs>だ、<roleName>刑吏</roleName>!
624
+ 殺されるのは、<rs corresp="#メロス">私</rs>だ。<persName corresp="#メロス"
625
+ >メロス</persName>だ。<rs corresp="#セリヌンティウス">彼</rs>を人質にした<rs corresp="#メロス">私</rs>は、ここにいる!」</said>
626
+ と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに<placeName type="real" corresp="#磔台"
627
+ >磔台</placeName>に昇り、釣り上げられてゆく<persName corresp="#セリヌンティウス"
628
+ >友</persName>の両足に、 <ruby>
600
629
  <rb>齧</rb>
601
630
  <rt>かじ</rt>
602
- </ruby>りついた。 群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。<persName corresp="#セリヌンティウス"
603
- >セリヌンティウス</persName>の縄は、ほどかれたのである。 <said who="#メロス">「<persName
604
- corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>。」</said><persName
605
- corresp="#メロス">メロス</persName> は眼に涙を浮べて言った。<said who="#メロス"
606
- >「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。 私は、途中で一度、悪い夢を見た。 君が<ruby>
631
+ </ruby>りついた。 <persName>群衆</persName>は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。<persName
632
+ corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>の縄は、ほどかれたのである。 <said who="#メロス"
633
+ >「<persName corresp="#セリヌンティウス"
634
+ >セリヌンティウス</persName>。」</said><persName corresp="#メロス">メロス</persName>
635
+ は眼に涙を浮べて言った。<said who="#メロス">「<rs corresp="#メロス"
636
+ >私</rs>を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。 <rs corresp="#メロス">私</rs>は、途中で一度、悪い夢を見た。 <rs
637
+ corresp="#セリヌンティウス">君</rs>が<ruby>
607
638
  <rb>若</rb>
608
639
  <rt>も</rt>
609
- </ruby>し 私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」</said>
640
+ </ruby>し 私を殴ってくれなかったら、<rs corresp="#メロス">私</rs>は<rs
641
+ corresp="#セリヌンティウス">君</rs>と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」</said>
610
642
  <persName corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>は、すべてを察した様子で<ruby>
611
643
  <rb>首肯</rb>
612
644
  <rt>うなず</rt>
613
- </ruby>き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高く<persName corresp="#メロス">メロス</persName>の右頬を殴った。 殴ってから優しく<ruby>
645
+ </ruby>き、<placeName type="real" corresp="#刑場">刑場</placeName>一ぱいに鳴り響くほど音高く<persName
646
+ corresp="#メロス">メロス</persName>の右頬を殴った。 殴ってから優しく<ruby>
614
647
  <rb>微笑</rb>
615
648
  <rt>ほほえ</rt>
616
- </ruby>み、 <said who="#セリヌンティウス">「<persName corresp="#メロス"
617
- >メロス</persName>、<persName corresp="#セリヌンティウス"
618
- >私</persName>を殴れ。同じくらい音高く<persName corresp="#セリヌンティウス"
619
- >私</persName>の頬を殴れ。私はこの三日の間、 たった一度だけ、ちらと<persName corresp="#メロス"
620
- >君</persName>を疑った。生れて、はじめて<persName corresp="#メロス"
621
- >君</persName>を疑った。<persName corresp="#メロス"
622
- >君</persName>が<persName corresp="#セリヌンティウス"
623
- >私</persName>を殴ってくれなければ、 私は君と抱擁できない。」</said>
649
+ </ruby>み、 <said who="#セリヌンティウス">「<persName corresp="#メロス">メロス</persName>、<rs
650
+ corresp="#セリヌンティウス">私</rs>を殴れ。同じくらい音高く<rs corresp="#セリヌンティウス"
651
+ >私</rs>の頬を殴れ。<rs corresp="#セリヌンティウス">私</rs>はこの三日の間、 たった一度だけ、ちらと<rs corresp="#メロス"
652
+ >君</rs>を疑った。生れて、はじめて<rs corresp="#メロス">君</rs>を疑った。<rs
653
+ corresp="#メロス">君</rs>が<rs corresp="#セリヌンティウス">私</rs>を殴ってくれなければ、
654
+ <rs corresp="#セリヌンティウス">私</rs>は<rs corresp="#メロス"
655
+ >君</rs>と抱擁できない。」</said>
624
656
  <persName corresp="#メロス">メロス</persName>は腕に<ruby>
625
657
  <rb>唸</rb>
626
658
  <rt>うな</rt>
627
659
  </ruby>りをつけて<persName corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>の頬を殴った。 <said
628
660
  who="#セリヌンティウス #メロス">「ありがとう、<persName corresp="#セリヌンティウス #メロス"
629
- >友</persName>よ。」</said> 二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。 群衆の中からも、<ruby>
661
+ >友</persName>よ。」</said> <rs corresp="#セリヌンティウス #メロス">二人</rs>同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
662
+ <persName>群衆</persName>の中からも、<ruby>
630
663
  <rb>歔欷</rb>
631
664
  <rt>きょき</rt>
632
- </ruby>の声が聞えた。<persName corresp="#ディオニス">暴君ディオニス</persName>は、群衆の背後から二人の様を、
633
- まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。 <said who="#セリヌンティウス #メロス">「おまえらの望みは<ruby>
665
+ </ruby>の声が聞えた。<persName corresp="#ディオニス"
666
+ >暴君ディオニス</persName>は、<persName>群衆</persName>の背後から二人の様を、
667
+ まじまじと見つめていたが、やがて静かに<rs corresp="#セリヌンティウス #メロス">二人</rs>に近づき、顔をあからめて、こう言った。 <said who="#ディオニス">「<rs
668
+ corresp="#セリヌンティウス #メロス">おまえら</rs>の望みは<ruby>
634
669
  <rb>叶</rb>
635
670
  <rt>かな</rt>
636
- </ruby>ったぞ。 <persName corresp="#セリヌンティウス #メロス"
637
- >おまえら</persName>は、<persName corresp="#ディオニス"
638
- >わし</persName>の心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。 どうか、<persName
639
- corresp="#ディオニス">わし</persName>をも仲間に入れてくれまいか。どうか、<persName
640
- corresp="#ディオニス">わし</persName>の願いを聞き入れて、<persName
641
- corresp="#セリヌンティウス #メロス">おまえら</persName>の仲間の一人にしてほしい。」</said>
642
- どっと群衆の間に、歓声が起った。 <said who="#群衆">「万歳、<persName corresp="#ディオニス"
643
- >王様</persName>万歳。」</said>
671
+ </ruby>ったぞ。 <rs corresp="#セリヌンティウス #メロス">おまえら</rs>は、<rs
672
+ corresp="#ディオニス">わし</rs>の心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。 どうか、<rs
673
+ corresp="#ディオニス">わし</rs>をも仲間に入れてくれまいか。どうか、<rs corresp="#ディオニス"
674
+ >わし</rs>の願いを聞き入れて、<rs corresp="#セリヌンティウス #メロス"
675
+ >おまえら</rs>の仲間の一人にしてほしい。」</said> どっと<persName>群衆</persName>の間に、歓声が起った。 <said who="#群衆"
676
+ >「万歳、<persName corresp="#ディオニス">王様</persName>万歳。」</said>
644
677
  <persName corresp="#ひとりの少女">ひとりの少女</persName>が、<ruby>
645
678
  <rb>緋</rb>
646
679
  <rt>ひ</rt>
647
680
  </ruby>のマントを<persName corresp="#メロス">メロス</persName>に捧げた。<persName
648
681
  corresp="#メロス">メロス</persName>は、まごついた。 <persName corresp="#セリヌンティウス"
649
682
  >佳き友</persName>は、気をきかせて教えてやった。 <said who="#セリヌンティウス">「<persName
650
- corresp="#メロス">メロス</persName>、<persName corresp="#メロス"
651
- >君</persName>は、まっぱだかじゃないか。 早くそのマントを着るがいい。<persName
652
- corresp="#ひとりの少女">この可愛い娘さん</persName>は、 <persName corresp="#メロス"
653
- >メロス</persName>の裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」</said>
683
+ corresp="#メロス">メロス</persName>、<rs corresp="#メロス"
684
+ >君</rs>は、まっぱだかじゃないか。 早くそのマントを着るがいい。<persName corresp="#ひとりの少女"
685
+ >この可愛い娘さん</persName>は、 <persName corresp="#メロス"
686
+ >メロス</persName>の裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」</said>
654
687
  <persName corresp="#メロス">勇者</persName>は、ひどく赤面した。 </p>
655
688
  </body>
656
689
  <back>
@@ -668,8 +701,72 @@
668
701
  <persName>セリヌンティウス</persName>
669
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  <occupation>石工</occupation>
670
703
  </person>
704
+ <person xml:id="メロスの妹">
705
+ <persName>メロスの妹</persName>
706
+ </person>
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+ <person xml:id="メロスの妹の婿">
708
+ <persName>メロスの妹の婿</persName>
709
+ <occupation>牧人</occupation>
710
+ </person>
711
+ <person xml:id="ディオニスの妹婿">
712
+ <persName>妹婿さま</persName>
713
+ </person>
714
+ <person xml:id="ディオニスの妹">
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+ <persName>妹さま</persName>
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+ </person>
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+ <person xml:id="ディオニスの妹の御子">
718
+ <persName>御子さま</persName>
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+ </person>
720
+ <person xml:id="ディオニスの世嗣">
721
+ <persName>お世嗣</persName>
722
+ </person>
723
+ <person xml:id="アレキス">
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+ <persName>アレキス</persName>
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+ <occupation>賢臣</occupation>
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+ </person>
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+ <person xml:id="老爺">
728
+ <persName>老爺</persName>
729
+ </person>
730
+ <person xml:id="フィロストラトス">
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+ <persName>フィロストラトス</persName>
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+ <occupation>石工</occupation>
733
+ </person>
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  </listPerson>
672
-
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+ </place>
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+ </listPlace>
673
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  </back>
674
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  </text>
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  </TEI>